運転手に求めることと言えば、まず時間厳守でしょうか。遅刻されたりしたら困ります。そして、目的地にちゃんと連れて行ってくれなければ話になりません。若い運転手を解雇した後、定年退職者から候補者を探しました。最初にやって来た人物は、銀行の支店長経験者でした。偉い人物だったせいか、運転手として働くことは無理でした。
二番目にやって来た運転手は、役所で長いこと運転手をやって定年退職した人物でした。アフマディという名前で56歳、運転技術はすごいものです。戦争のような交通の中で、すいすいと運転してしまいます。遅刻するということもほとんどありませんでした。問題は、英語が通じないということでした。1年くらいは働いてもらったかなぁ・・・
でも、彼のすいすいという運転、悪く言えば品のない運転、ずるいやり方です。運転以外ではおとなしい人物なのですが、私は次第にその運転スタイルに嫌気がさしてきました。車はイランで最新のサマンドだったので快適ではあったのですが、私を飛行場に迎えに来なかったということがあり、それを理由に解雇しました。
最後に使った運転手は、アライーという53歳の人物ですが、英語は話せないものの大変立派な人物でした。時間厳守、到着時刻の的確な読み、丁寧な運転、どれも申し分のないものでした。最後の最後にいい運転手をみつけることができました。アライー氏とは十分なコミュニケーションはとれませんでしたが、いい関係を維持することができました。
アライー氏は約1か月間、メッカの巡礼に参加したことがあります。そのとき、彼の弟が代わりに運転手をやってくれましたが、その弟はパスポートコントロールの担当官だったようで、飛行場で融通が効いたのには助かりました。彼が乗客と係員しか入れない場所で私を待っているのには驚いたものです。
アライー氏とのコミュニケーションはもっぱら秘書のアツーサを通してでした。夜パーティなどで遅くなるときは、運転手と直接コミュニケーションをとらないといけませんが、時間や場所など必要最低限のやり取りでは問題はありませんでした。私は、任期の後半頃にはペルシャ語の勉強はもう完全に放棄していましたから、ややこしい話のときは秘書がいないと困ったものです。
なぜ、ペルシャ語が身につかなかったのかというと、仕事のときはいつも秘書がいるからで、丸一日ペルシャ語を話さないということが普通だったからです。結局、挨拶程度しか覚えられなくなってしまいました。旅行するくらいのペルシャ語はできますけど、イランにいながら覚えたペルシャ語をどんどん忘れてしまうということになってしまいました。言語は使わないと忘れるものです。
アライー氏の車は、プジョーのRDという1600ccの車だったので、アルボルズ山脈を越えるときにはパワー不足でノロノロ走るしかありませんでした。途中でLNGを燃料に切り替えたので、大気汚染防止の専門家である私にはおおいに結構なことでした。なぜ彼が切り替えたのか理由はよく分かりません。燃料が安いのでしょうね。ガスタンクのためトランクに荷物が積めなくなったという弊害はありましたけどね。
ともあれ、私の帰国までアライー氏がいい運転手として働いてくれました。彼には退職金以外に私の使っていた電子レンジをあげました。
(写真は、アライー氏)
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