どこの国でも難しいのが運転手の雇用です。知識があって真面目な男性なら運転手というような職業はやらないというものでしょう。あんまり優秀な運転手をみつけても、いい仕事をみつけて辞められてしまうということを心配するのでは困ります。
運転手の仕事というのは、目的地までちゃんと運転をするというだけでなく、待つということも大きな仕事だと思っています。私は基本的に50歳くらいの運転手を雇うことにしていますが、イランでの最初の運転手20代の独身男性でした。
モハンマドという名前の青年、性格のいい若者にみえました。面接の際、父親が一緒に来ました。父親は日本大使館で働いていました。信用できる人間という意味では申し分ないし、躾もしっかりなされているものと考えました。
仕事をしてもらうと、やはり危惧したように若いエネルギーのせいでしょう、じっと待っているというような仕事は難しいようでした。それでも、イラン人の若者の実態を観察するのには大変面白い対象だったので2年間くらいは仕事をやってもらいました。
仕事を始めて2、3か月した頃に彼の家の夕食に招待されたことがあります。イランの家庭料理を初めて体験することができました。日本大使館で働く父親ですから、イラン人にしては高給取りなのでしょう、なかなかいい家に住んでいました。敷いてある絨毯は、私のアパートにあるものとは比較にならないような高級感のあるものでした。
夕食で本当に困ったことは、運転手の母親がもっと食べなさいと強く勧めて来ることでした。まるで日本の田舎でみかける光景のようです。しかも、私がもう食べられないと悲鳴を上げているのに、私の皿に料理をどんと入れて勧めるのです。口をつけないと悪いと思いますから、無理して食べると、そこにまたどんと来るのです。こうなると地獄の責め苦です。
もう、デザートも食べることはできません。物理的にもう食べられません、食道にまだ食物が詰まっているような状態でした。この招待の後、数日間は消化器系の具合が悪く、体調不良になってしまいました。やれやれ・・・ イラン人家庭への招待はもう懲り懲りだと思ったくらいです。
こういう家庭で育った運転手だったので、いろいろと問題が出ても、しばらくはこちらが我慢して雇っていましたが、若さのせいか、じっと待っていることができず、どこかに行ってしまうので、タクシーを拾うことも何回かあり、挙句飛行場から出て来る私をみつけることができないというようなこともありました。
ついに私は彼を解雇しましたが、イラン人の若者の様子を知る上で多くの情報を得ることができたことは有益でした。彼も一般的な若者の例外ではなく、あまり勉強が好きでなく、大学進学はしませんでした。運転手の仕事を辞めてから専門学校に通うようになったと聞きましたが、それはそれでよかったのではないかと思っています。
ところが、私の帰国が決まった頃、彼は父親の計らいなのでしょう、日本大使館のガードマンとして雇われていました。ガードマンもじっとしていることが多い職業ですが、高給が期待できるし、父親の監視もあるでしょうから、なんとか勤まるのではないかと思います。いい仕事にありつけたことは喜んであげたいとは思います。
この若い運転手の後は、退職した運転手を雇うことにしました。イランでは30年勤続で退職になりますから、50歳くらいで定年退職した人はたくさんいます。年金をもらっているのであまりお金に困っていない人たちです。
(運転手とプジョー405)

(運転手の家族)

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